宮崎)震災があった日は電車に乗っていて地震の揺れを体験していないので実感がない。TVで見て理解しようとしたがハートまで来ない。野呂瀬さんがボランティアに行っていた話を聞いて思ったのは テレビは視聴者を意識した画像が流れている。物事どの面から見るかで事実が変わる。自分はどこで見ているのか。この地震の話を続けていると気持ちが沈んでいく。ここからどうやって上がるか。今日は「リスク」を負ってやっていく。
1) 3人組を作る 知り合いタイム&今の心境を語る
澤)震災の話 今何ができるか・・・私ができるのは長く募金を続ける事。
寺)自己紹介をして地震について話した。
本)今母が宮城県にいるが母も家も何とか無事だった。福島の原発問題は日本人と海外の人の見方が全然違う。
柳)神奈川にいる娘に水や乾電池を送ろうとしたがすでに売っていないので苦労した。
三)自然の力が大きい。先人の知恵をこれからどう生かしていくのか。
木)原発土地の汚染など不安がある。北海道の開拓地に入って頂く準備もできるのではと。危険を指摘されていたのに報道されなかった。電気の恩恵に浴していながら犠牲になった人もいる。
瀬)老人の方が不安がっていると言う話を聴いた。一人でTVを見ていたら落ち込むだろうなと思った。
銅)光さんの息子さんが弘前にいて連絡が取れなかったが4日後に生きていると分かって生きているだけでありがたいと感じた。現地の農家の野菜も食べられるのに売れない。
細)野菜作りを学びたいと思っていたのでその話で盛り上がっていた。
光)いつもは連絡しない身内と「無事で良かった」と電話で話した
中)日本の経済が様変わりするのでは。これからはどうやって生き抜くのか。
宮)今まで私たちが信じていた枠組み 信じて疑わなかった見方がどんどん変革していくだろう。変えざるを得ないのでは。
船渉)工さんは今日の例会どうしようかなと考えていたが 今朝やっぱり行こうと決めてここに来た。駒さんは青森が実家なので一時的に停電になったがガスでお赤飯を炊いたというので そんな中でお赤飯をつくるのは素晴らしい。
工)負担になっていた事が一晩寝ることで少なくなったので 来ようと思った。
成)原発では長年母が反原発運動をしてきたが 私はそうではなくむしろ大衆側。テレビの情報と母の言う事は全く違う。何を信じていいのか全体が見えるまでは意見を持たないでいようと。
吉)このメンバーはよく組む機会がある。それぞれリスクを抱えて行動していてその後どうなったか報告し合った。
高)はい報告会でした(笑)
船真)中川さんが救援活動をしているのでその方法を知りたいと思った。職場にペットボトルを置いたら皆さん「したかった」と言っていた。
中)今後元気な私たちが継続的なサポートを続ける事が大事だねと話した。何年もかかるのでどうやって関わっていけるかのか考えたい。
宮崎)今回の事で学ばなきゃいけないのは関係性。つながりの強い地域だったから暴動も起きない。電池や水の買い占めが起きるかというのは 誰も守ってくれないから。自分で何とかしなきゃならない。結局ネットワーク(つながり)を持っている事が自分を救ってくれる。あるいは役に立つ。関係性は生き物。どうつながっていくか。非常時に見事に表れる。自分がピンチの時去っていく人がいるしピンチの時に来てくれる人もいる。心理的な事実が大きいので不安になる人がいる。
2)震災という出来事から今後何が活(生)かしていけるのか?
光)継続的なサポートということで一年後もレジで募金を続けて行きたい。
細)自宅で地震があった時に備えて 近所の仲良くできる人とはつながりをもっていきたい。挨拶も大事だし理事会の集まりも大事。
銅)家族がバラバラで災害にあった時のために集合場所を決めている。
木)ちょっと今ひねくれている。今の負のものをプラスに転換すると言う話だと思うが今回の震災をあまり負に感じていない。映像でしか知らない。活かすと言うほどのものがない。おこがましいような気がした。周りで募金が増えている。「行事を中止にしよう」と言って自分は善人だと言わんばかりの人がいたが(笑)それを嫌だとは言えない。
瀬)募金については「私は別でやったからここではしない」と言うのはちょっと勇気のいる行動かな。
三)常日頃自分のできる事をまずやる。今回の事ではエネルギーや食品を無駄遣いをしないと考えている。それで充実感が湧いて元気が出る。
寺)僕はとりあえずすでにやっている節電や献血をやる。募金は終了。備えもやる。
本)今これを生かすという心のレベルに達していない。現地の母に会いたいけど行けない。近所の方に大変お世話になっているのでお礼にも行きたい。普通の事が有難い。
柳)北海道も原発の依存率が高い。推進派と反対派の意見を聴いて思ったのが道民に将来について投票をしてもらうといいなと。
船真)生活に物が多いほど失った時喪失感が大きい。シンプルな生活が大事だなと思ったり 芸術など無くなったら寂しいなとも感じる。
澤)自分の外に持つ物と内に持つ物を意識した。感動や温かい思い出や冷静さなどが内に持つ物。結局最後に頼りになるものだと思う。
中)物をあまり持たない方が心が豊かになるのかなと。幸い仮のアパートなので流されても困らない。今の生活でいいんだなと満足。
成)ネットワークがあっても気持ちが落ちているとそれは働かない。相手に申し訳ないなと思ったりして言えなくなる。自分も気をつけよう。
宮崎)ただ自分が言えないでいることをちゃんと認めておかないと。その事を否定して誰かとつながろうというのは難しいかも。
吉)自分の中で他人を否定している自分を肯定するということなんだ。明日の運命は誰にも分からない。どうやって生きていくかを考える。現地に行く人のためにガソリンタンクを手配できたのはネットワークのお陰。元々日本の礼法を学んでいる高さんから聞いたが「すみません」の本来の意味は自分の心が澄んでいない状態をいうとか。
高)日本人の根本を見直すと農耕民族で自然に感謝してきた。でも今まで全てが当たり前で来ていて感謝してきたのかな?先人達が培ってきた土台の上に生きてきた。日本人として根本に持っているものをもっと大事にしていかないと。日本文化を一つでいいから深く伝えて行きたい。
工)気持ちの問題では明るくいた方が色々なことができる。正直なところ今回の事は他人事。そこから何かを活かすと言われても何もない。海辺に住んでいるのでもし津波で流されても探さないでいいと子供達に言った。
宮)映像を見て感情的になっている。今自分ができることは足元を見つめてネットワークを固めこと。もし札幌に移住する人がいるとしたらお部屋が空いているという情報で役に立てる。自分にとってどんな意味があるのか考え続け学んでいこう。
<休 憩>
3) 被災地でボランティア活動をした野呂瀬さんの話を聴く
宮崎)震災をどう受け取るかそれぞれ文化的背景が違うので様々。自分のハートの地盤はどこにあるのか。プライドやこだわりが誰にでもある。どこで物を見ているかが大事。非常時にどうつながるか つながれるかは大きい。
野)今大学教員だが薬剤師の免許を持っていて8年現場にいた。メールリストの中でボランティアに登録したが それを見た同僚に声をかけられた。「いつ行く?」と言われて「行くのか?」と思った(笑)薬剤師会はまだ動いていないので個人的なつながりで動くしかない。明日行くからと言われてちょっと迷った。息子の卒業式や学生との約束があったので。でもカミさんに電話したら「行きたいの?じゃあ行けば」と。
結局自分の車も使い自己完結の用意した。往復の燃料を入れる缶を探すにもひと苦労。朝4時に出て途中予定外の事があったが 石巻に夜10時に着いた。現地の医療者は被災者でありながら仕事をしているので疲れきっている。家族が行くえ不明にでも患者さんのために働いている。
石巻は町半分が持って行かれた。全く何でもない町並みもあるが道を隔ててひどい状態。その落差が大きい。医療者たちも避難所(石巻高校)暮らしだが 場所があり薬があるならとにかく診療する。そういう人達の交代要員になった。石巻高校(避難者700人)の相談室が医療所。200か所ある避難所のうち市が把握している所には物資が届くが漏れている場所には届かない。色々な避難所をドクター達が回っていた。人も物も分散していると非効率なので仮設の診療所を作って拠点とした。薬の安定供給のために手配や体制を作った。最終的にドクターが4~5人で薬剤師が3~4人。一日300人くらいの人が来た。
期間は一週間で延長はしないと決めていて帰る前日に後任が決まった。色々な場面を見た。病院が流されたので心配していたら先生がここいた。「いやあ生きていたんだ!」と抱きついて泣いている人。仕事中に携帯で身近な人の死を知らせを聞く人。カミさんが息子の卒業式の写真を携帯に送ってきたので「行けなかったなあ」と言ったら傍にいた看護士さんが「うちは卒業式も出来ないんだよね」と。
患者さんがいる限りやれることをやってきた。火事もあったので焦げくさかった。道が分からないから無理やり自衛隊が道を作った。卒業式のサイン帳が落ちていた。「高校に行っても仲良くしようね」と書いてある。この子って生きてるんだろうか?
焦げくさい匂い 湿っぽい寒さ 生活の匂いが残っている瓦礫・・といってもそこに住んでいた人にとっては宝がある。行ってみないと分からなかった思いがあった。
4)野呂瀬さんへの質問
宮崎)被災者であると同時に医療者をやっている人達と働く心境はどうだったか?
野)一緒に仕事をしている医療者はチームのメンバー。正直言って仕事中はあんまり相手が被災者であることは意識していなかったが 食事の時レトルトカレーと缶づめを見て「ごちそうだ!」と喜ぶのを見て「あ 違う」と思った。それでも避難所にいる人の方がむしろ栄養状態はましかも。自宅にいる人は食料は自力で調達。店も空いていないからわずかにやっている店は長蛇の列。
中山)そういった生活での中で野呂瀬さんを支えたもの 精神的な支えがあったのではと想像したが もしあったらそれを教えてください。
野)多分使命感。正直医療から離れて7年間ブランクがあったから不安があった。でもきっとやれることがある。診療時間が終えてから本で懸命に復習した。今の役割だと思ってやった。
宮)一週間後自宅に戻った時人生観への影響や変化についてあれば教えてください。
野)昨夜カミさんが言ってくれたのは「あなたの事は諦めている。やりたい時はやるんだね」と。僕は転職やら色々あったが今回ばかりは死ぬかも知れないが でもそれも「ありだな」と思ったと。それを聞いて自分もそう思っていたんだと分かった。ここ数年人って簡単に死ぬんだなと思う体験があったので「生きているうちにやりたい事をやろう。やれる事をやろう」という気持ち。それを実感して確認した。
中)そこに行ったのはミッションと言ったがそれをやり終えた時の気持ちは?
野)一つは達成感。一つは次のミッションの自覚。仮診療所の立ち上げはやってきた。次のミッションは次に行く人達への支援。中長期的な支援が必要。ボランティアに行く人の背中を押すとか情報提供するとか。薬手帳の大事さを実感したのでそれを薬剤師に伝えるのも役割。
船渉)野呂瀬さんは今私たちにどんな事を伝えたいのか?私達に何が求められていると思うか?
野)今返答に困っている。僕自身被害者でもないし必要な物や事柄は時間共に変わると思うので。是非これをしてくださいとは言えない。むしろどんな事をしたいのかと問いながら その人がしたい事を聞いて僕が持っているリソースを提供したり 問合せ先を教えるとか。何かしたいけど何をしたらいいかわからない人に対しては僕は出来る事が無いかも。
吉)TVを見て感染症が絶対起きると思う。行ってみてどういう対応をしたのか?
野)今回3~4日たった避難所では感染症状が出始めていた。抗生剤をどんどん出した。仮設診療所の一部で寝ていたが24時間対応。ポンと40度くらいに体温上がる人もいた。水は結構あったからどんどん水を飲んでと言っても我慢する人がいる。トイレが流れないからと。女性は我慢してしまうと膀胱炎になって熱が上がる。それ以外の人は僕の判断で別の場所に移ってもらう。熱が高いは場合は解熱剤とタミフルを使って翌日ドクターに引き継ぐ。
吉)非常時にコーチングは機能していたか?
その質問には常にイエス。非常時でなくても常に自分は何をしたいのか何が出来るのかを問うのでセルフコーチングしている。
木)一週間の予定だったというが 何故一週間なのか?また直前まで交代者が決まらなかった時 どんな気持ちだったか?
野)誘ってくれた先生は経験のある人でボランティアは1週間が限界だと決めた。普通は3~4日でローテーションをかけている。僕はむしろ帰って来てからがきつかった。身体も気持ちも大変だと実感した。復興支援が目的だったので薬剤師会には現地の薬剤師を入れてほしいと言った。現実には被災者なのでなかなか見つからない。残るかなと迷いはあった。
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この話を聞いて何を感じたか
6) 全体振り返り(野呂瀬さんへのフィードバック)
高)匂いとか情景が浮かんだ。一週間行った中での立ち位置を考えると7年間のブランクがあったのにすごいチャレンジ!医療人として素晴らしいと思った。帰って来てから次の立ち位置がきちんと明確にされていたので その強さと生き方が明確だと感じた。
野)ほんとチャレンジだった。ただ変な自信があった。「きっと何とかなる」と。そして何とかなった。自分の役割をその時その時に感じる。
吉)伝える力がすごい。子供の頃住んでいた町が大火事で燃えた体験を思い出した。皆で瓦礫の撤去作業もしたがニュースの映像を見ても何も思い出さなかった。他の小学校からの「がんばってね」という言葉が嬉しかったし感動した。宮城に知っている歯科衛生士達がいるのでメッセージを届けたい。衛生士のエプロンに寄せ書きを書いて送るアイデアも出たし。
宮崎)それは今の話がライブだから思い出したんだと思う。それが大事。
本)野呂瀬さんが過ごした一週間の重みを感じた。野呂瀬さんが後に続くレールを引いてくれたので復興の役に立つと思う。東北の人間を代表してお礼を言います。
銅)奥様に電話した時に「やりたいんでしょ?」と言われたその奥さんがすごいなと思った。普段からそういう関係を築いているのでそんなやりとりができたんだなと。
三)野呂瀬さんの職業意識や職業に誇りを持っているんだなあと強く感じた。
中)人は役割を持っている時に力を発揮しようと頑張るのかなと感じた。私達は被災しなかったから被災しなかった役割があると思う。それを果たせていければいい。
野呂瀬)聴いて頂いてありがとうございます。帰ってきてから肉体的に疲れていた。取材があったりして休めたのはおとついくらいから。気持ちがなかなか戻ってこない。話したい。思いはたくさんあるけどなかなか出てこない。昨日やっとカミさんと話した。今日遅れてもここに来ようと思ったのは「ここで喋っていいよ」と言われたから(笑)楽になった。これも含めて体験だと。ボランティアに行き戻ってきたらこういう状況になる。ダメージがきつい。聴いてくれる人がいてフィードバックがあって 自分がこういう体験をしてきたとかみしめられ場があると楽になってくる。すごく大きなこと。これも含めて人に伝えられる。
宮崎)生で話す意味 生で話す素晴らしさを感じて頂けたらと思う。ここは8年目を迎え 野呂瀬さんがこのように自由に話すことが許される場になっている。人がいないと出来ない事。ここに来てくれるだけで意味がある。これが震災を活かす事。今日のテーマとぴったり合った。